「笑って済ませる」は、優しさではない——当事者として感じた違和感
私はこれまでに2回、「発達障がいカフェ」と呼ばれるイベントに足を運びました。そこでは、同じような悩みや背景を持つ人たちが集まり、少しでも安心できる居場所を作ろうという思いがあったはずです。
しかし、あるスタッフの言動がきっかけで、私は深く傷つきました。
ある日、イベントで不快な出来事について率直に指摘をしたところ、返ってきた言葉は「すべてを笑いに変えて」。私はその瞬間、言葉を失いました。それは、私がこれまで受けてきた理不尽や悲しみ、怒りさえも、“エンタメ化しろ”と強要されたように感じたからです。
彼から帰ってきた信じられない言葉
さらに彼はこう言いました。「ここは福祉の場ではないんです」と。
しかし実際には、発達障がいをテーマにしたイベントや交流会が何度も開催され、当事者の人々が期待をもって参加している場所でもあります。その矛盾に、彼自身は気づいていないのでしょうか。
安心できる空間として当事者を呼び寄せておきながら、傷ついた時には「福祉じゃないから」と距離を置く。その姿勢は、まるで責任を手放し、都合の良い部分だけを“当事者の味方”として演出しているように見えてしまいました。
嘲笑や茶化しは、優しさではありません。
実はそのスタッフは、私が話している最中に口元を歪め、明らかに小馬鹿にした態度を取りました。そのことを別の場で指摘したところ、またも返ってきたのは「すべてを笑いに変えて」。その言葉の裏に、彼自身が“無意識に笑っていた”という事実を認めてしまっていることに、本人は気づいているのでしょうか?
「笑いに変える」という言葉は、本当の意味で相手に寄り添っていたら、決して出てこないものだと思います。
実は知っていた彼の過去の大きな過ちを
私は知っていました。彼が過去に利用者とトラブルを起こしていたことを。最初は「発達障がい特有の伝達ミスや認識のズレで、誤解が生じたのかもしれない」と思っていました。
けれど、今回のやりとりでわかったのは、そのトラブルの背景に彼自身の嘲笑的な態度や、相手を軽視するような言動があった可能性が高いということです。もちろん、私の視点だけでは断定できません。ですが、その可能性を否定できるほどの誠実さは、少なくとも私には感じられませんでした。
過去に利用者との間で深刻な問題を起こしたことが報道された人物が、いまだに当事者向けイベントを主催している現実があります。私自身、その人から心ない言葉を投げかけられ、無力感を覚えました。それが彼の“特性”に由来するものだったとしても、最低限の敬意と配慮が求められる場面だったと今でも思います。
「当事者」や「支援者」を名乗る以上、その言動には責任が伴います。そして過去の出来事をなかったことにしないこと、それこそが、同じような傷を他の人が負わないために必要なのだと私は信じています。
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