人生逆転ストーリー 僕がアートとアフリエイトで生きるまで

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人生逆転ストーリー 僕がアートとアフリエイトで生きるまで

突然ですが、僕は今、障がい者雇用のアートに関する雇用と、障がい基礎年金で生計を立てています。そしてこれは今挑戦している真っ最中ですが、アフリエイトでも月45000円位の収入になる事を目指しています。実はもう種まきは出来ている状態で後はアクセスが増えて行けばその副業収入も決して不可能ではないという数字だと信じています。

ADHD ASDという言葉がまだ認知されていない頃に僕は生まれた。

僕は軽度の知的障害でADHDでASDの発達障がい持ちです。ですが診断されたのは5年程前と極々最近です。なので幼少期に置いてから人間関係という物に非常に苦労してきました。1.23年生まではそこそこ成績も良かったのですが、4年生から全く勉強についていけなくなりました。そして人間関係で特に最悪だったのが中学2年生になってからの1年半。自分のドン引きする行動が原因とはいえ、ぼぼ同学年全体からバイ菌扱いを1年半に渡り受けました。そして不思議なものですが、アートで生きている僕が中学の美術の成績はオール1でした

高校時代

僕は逃げるようにして自分の学校からは遠い学校をあえて選びました。両親からこれからは福祉の時代だとアドバイスされ、福祉科に進みました。

ただ1年半バイ菌扱いされた人間が感じる副作用が出てしまいました。それは皆が僕を嫌っているように感じるという非常にやっかいなもの。ですが、高校も辞めたい病を発病しながらも何とか留年せずに、介護福祉の専門学校に入学しました。

専門学生時代

僕はここで大きな挫折を経験します。他の科目は全て合格出来ているのに実技だけ落ちて留年が確定しました。実技はADHDにとっては本当にやっかいな科目です。デモ演習では演習を見ていれば覚えれない、mメモをとっていれば演習が目に入らない ルーム開放日でも友達を作れないから練習も出来ないの三重苦でした。

しかも留年したらダブっているという目で見られ馬鹿にされる。中には明らさまに態度に出してくる人もいて「ムカつく ムカつく ムカつく」と目の前で言葉に出してくる人もいました。まあそんなこんなで何とか3年で卒業は出来たのですが、次に僕は本当はなりたかった保育士の学校に進む事になったのでした

ひどすぎた専門学校A

そして介護福祉士を取得してから、保育士や幼稚園教諭や色々なコースがある専門学校Aに行くのですが、結果的に6月頃で行かなくなりました。理由は何度も何度も保育士は取れるのかと聞いて返事は「とれる」と言ったもののどれだけお金がかかるかという事は一切説明がなく、「ちょっとお金がかかるという曖昧なものでした」そのちょっとがとんでもない金額で毎週のように東京の学校の方まで行かなくてはならず、莫大な額がかかることを入学後に知らされました。それがきっかけでこの専門学校はやめる事になりました。ただ唯一ここで良かったのはこの先大きく関わる事となるガイドヘルパー(知的障害障がい児·者の学校や作業所への送迎や余暇支援)。

ガイドヘルパー 学童保育 某配達会社配達員時代

正確には色々順序があるのですが、ADHDあるある仕事を転々とする行き方だったので纏めます。ガイドヘルパーは本当に楽しかったのですが学童保育や配達会社での配達員時代は苦痛で仕方なかったです。学童保育では次に何の雑用をすれば良いのか、分からず、アンケートには「男性指導員にガッカリした」「男性指導員が頼りない」(男性指導員は僕だけ)と書かれ非常にショックを受けました。また配達員自体も後ろから聞こえる声で「こいつ 嫌い」やあからさまな舌打ちなどひどいものでした。

ガイドヘルパーは楽しかったのですが、その分親との関わりが非常に億劫なものでした。

人生逆転の転機 障がい者手帳の取得

僕は障がい者手帳の取得を機に一気に人生が好転しました。とはいってもいきなり劇的に変わったわけではありません。移行支援に通ったり作業所に通ったりしながら徐々に好転していきました。

僕は作業所や移行支援は優しい人ばかりがいる印象を抱いていましたが、実際はそうではなく、人間関係を上手くやっていけない人が結構多い印象を受けました。

やはり移行支援事業所でも態度を変える人がいたり、作業所では僕が作業した物をいちいち確認してきたりと特有の人が多い印象でした。でも作業所に関してはいくらそういう行動を起こそうがアートに関する雇用の話が来て先に僕の方が就職をした時点で実は僕の方が優秀だったと皮肉にもオチがついてしまうという現実です。

現在はアートに関する雇用で在宅ワークをして障がい者基礎年金で生活を立てる日々、そしてアフリエイト挑戦へ。そしてあるコンテストでは商品化もされました

僕は前グループホームで非常に嫌な思いをさせられ、半ば追い出せれた感じで前グループホームを退去しました。この時に僕は見返してやる事を誓ったのです。イラストのコンテストで賞を受賞して、見返してやる 似顔絵ボランティアで有名になって、山下清見たいになってやる 実はこれも着々と目標に向かって進んでいます。似顔絵は似顔絵検定4級 3級を取得。イラストに関しては何のコンテストかは念のため言えませんが商品化されたのがあります。実は商品化されているのが2個ありこちらは発表の許可も出ているので発表しますが、Febmaの私のSDGs宣言では商品化56作品のうちの一つに選ばれています。

それがこちらの商品です。色々商品化されています。なおオンデマンド商品です。ですが商品化は商品化です。

 

僕は今幸せの道に向かって歩いていっている真っ最中

僕はコンテストで商品化に選ばれ、アートに関する雇用では自分のペースでゆっくりと仕事をさせて貰い仕事に関しては人間関係皆無の日々を送り、時にはマジックバーを放浪して記事にしたりと幸せに向かって歩いていく途中の段階だと思っています。今、僕には夢があります。もしこのアフリエイトが軌道に乗り、前半にも書いた月額45000円という副収入が安定したら、一緒に住んでる利用者 世話人、サービス責任者を僕の奢りでホテル代も込みでプレゼントしたいというのが今の夢です。もし応援してくれるならXの登録やコメントを是非よろしくお願いします

👇ここでちょっとアフリエイト 僕は移行支援は辞めてしまいましたが、上手に使えばとても良い制度です。まずはホームページで雰囲気を掴んでみたり見学申し込みも簡単に出来るのでして一度覗いてみてはいかがでしょうか👇

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💡父も母も亡くし喪失感にさいなまれてから、また前を向いて歩き始めた記事です。

 

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